
2025/1/19
【アルジャーノンに花束を】勉強より大切なものを教えてくれる物語
※以下ネタバレを含みます
大学受験、高校受験、中学受験・・・子供にとって、知識を試される機会は多くある。進学校に通っていた学生時代、「テストの点数が人としての優劣を決めるんだ。」と本気でそう思っていた。
学ぶことは素晴らしいし楽しいことに間違いない。ただ、周りのひとに共感したり、受け入れたり、思いやる心がなければ知的な成長は意味をなさないことを、ダニエル・キイス著の「アルジャーノンに花束を」は物語を通して教えてくれる。
「アルジャーノンに花束を」は知的障害を持つチャーリイ自身が書いた文章「経過報告」を通して進む物語だ。
チャーリイの障害は手術によって改善されていく。経過報告の文面も、最初はひらがなが多い文章だが、時が経つにつれて難しい単語を使用するように変わっていくのが面白い。
手術によって利口になれば、周りの人を喜ばすことができ、友達もできると考えていたチャーリイだったが、実際はそうではなかった。
利口になっても感情的成長が追いついてなかったからだ。
知的障害がある頃にチャーリイはパン屋で働いていた。本書の中で、パン屋の同僚が手術後に自分より賢くなったチャーリイをみて拒否反応を示す場面がある。恐怖心からの自己防衛反応が働いたのだろう。
自分より知的レベルで劣っていた人が、ある日突然自分より賢くなったら、どのような反応をするだろうか。パン屋の同僚が自分だったらと思うと考えさせられる。
賢くなったチャーリイ側にも問題があった。利口になった自分を見てみんなはどう思うのか、どのように立ちふるまえば怖がられずにいれるのか。相手のことを思いやる気持ちがあれば、結果は変わっていた可能性がある。
僕らの日常生活でも同じような状況に陥ることはある。
たとえば、学生時代の友人が社会人になって社会的に自分より成功したとしよう。社会的に優劣があったとしてもお互いに友だちでいたいなら、成功した人は相手のことを思いやる気持ちは必要だろう。見下すようなことがあってはいけない。また逆に成功した友人がいればそれを認めて、受け入れることが必要だ。笑われることを極端に嫌ってはいけない。
そういえば僕自身、社会人になってから全くと言っていいほど友だちができなくなった。年齢が上がるにつれて、変なプライドができ、「どんな仕事についているか。」「年収はいくらか。」「どんな家に住んでいるか。」というようなことをとても気にするようになった。社会人になってから知り合って間もない人に、笑われたり、下に見られることを避けたい感情が、友人を作ることの妨げになっているようにも思う。次のチャーリイの言葉が自分にとって響いた。
ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです。
アルジャーノンに花束を ダニエル・キイス著
逆にこの後、チャーリイは知的障害がある状態に戻ってしまうが、その時、パン屋の同僚はチャーリイが虐められている時にチャーリイを守る行動をする。それは、チャーリイに対する同僚の見方が変わったからだろう。一度チャーリイが賢くなったことにより、同僚がチャーリイを人として認めたからか、それとも再び知的障害がある状態になってしまったチャーリイを憐れんでのことか、二つの感情が入り混じった結果のような気がしている。
ちなみに、タイトルのアルジャーノンは、チャーリイと同じ手術を受けたネズミだ。このアルジャーノンも主人公のチャーリイと同じように一度は利口になるが、その後また退化してしまい、最後には死んでしまう。
アルジャーノンと同じ道をチャーチルも歩むという、残酷な将来が予想される中、チャーリイの本書の最後の一文は人として生きることの素晴らしさや美しささえ感じる。
どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。
アルジャーノンに花束を ダニエル・キイス著
たとえどんな状況であっても、人は周囲を思いやる気持ちを持てる。
知的障害があることは本当に不幸なのだろうか。人より物覚えが悪いことはそんなによくないことなのだろうか。
中高一貫校の進学校に通い、受験に失敗して落ち込んでいた頃の僕に教えてあげたい本だ。